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記念館便り

こちらでは記念館の最新の情報や近況、そして学芸員やスタッフによる日々のちょっとした出来事など、あまり形を決めずに様々な事を掲載していきます。

2026.10.26 展示室トーク


12月6日に「松山市立子規記念博物館」にて、「子規博友の会」主催のイベント「子規亭2026」第2夜が開催されます。東京ヤクルトスワローズ前監督・高津臣吾さんのトークショーでゲストは球団マスコットの「つばみちゃん」だそうです。

わたくしは、このイベントに参加すべく、先日申込みをして参りました。

スワローズは毎年、秋季キャンプを松山で開催しており、わたくしも2019年にスワローズ秋季キャンプを見学に行ったこともあり、(記念館便り『「十三」%割引券』)、今から楽しみにしています。


それはさておき、子規記念博物館や、子規博友の会は、年間を通して様々なイベントを開催されています。子規記念博物館は同じ松山市内の博物館施設ということで、記念館スタッフもよくイベントに参加させていただいております。そして、子規記念博物館に倣い、伊丹十三記念館でも積極的にイベントを開催しています。

記念館人気のイベント「収蔵庫ツアー」の応募は先日締め切りましたが、もう一つ、おススメのイベントがありますのでご紹介させていただきます。



記念館の展示の楽しみ方を学芸員がお伝えする「展示室トーク」です。


12月5日(土)14時より45分程度、常設展示室の館長挨拶・特報映像コーナーでお待ちしております。ご入館料のみでご参加いただけます。



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この展示室トークをわたくしがおススメする一番のポイントは、事前応募が不要なところです。当日記念館に来館されてから参加をお決めになっても大丈夫です。


年に数回の貴重な機会となりますので、是非ご参加をご検討ください。

今後もイベントの開催は決まり次第記念館HPにてご案内させていただきますので、引き続きチェックしてみてください。



スタッフ川又

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2026.10.19 秋の夜長に

記念館便りをご覧の皆さま、こんにちは。
ずいぶん秋らしくなってきました。日中はまだ気温が高めですが、朝晩に冷え込むようになりましたので、体調にはお気をつけて日々をお過ごしください。

さて10月27日から11月9日までの2週間は、「読書週間」にあたります。

図書館や書店でイベント等が開催されることも多く、本や本にまつわるものに触れる機会が増えますので、この時期に「ちょっと本を読んでみようかな」という方も多いのではないでしょうか。しかしいざ読もうとすると、書店には本当にたくさんの本が並んでいますのでどれを読もうか迷ってしまいますよね。

そんな方に、2026年に刊行(再刊)された、伊丹さんに関する書籍2冊をご紹介いたします。

一冊目は『問いつめられたパパとママの本』です。
1968年に中央公論社(現:中央公論新社)から単行本が発売され、その後中公文庫や新潮文庫を経て、今年の3月、装いを新たにした単行本が刊行されました。

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どんな内容かといいますと、タイトルどおり、子どもの素朴な質問に困ってしまうパパとママのために伊丹さんが書いた本です。前書きではこんなふうに紹介されています。

実用的にみるなら、また、この本は、ホラ、子供がよく親にいろんなことを訊くじゃありませんか、
「空ハナゼ青イノ?」
「オ月サマハ、ボクガ歩クトドウシテツイテクルノ?」
そういう時に繙いていただきたい虎の巻でもある。
子供の質問というのは、素朴で根源的であるだけに、難問であることが多いのであります。親のほうはハタと困ってしまう。
そうして、こういう時の親の態度というのが大切なのですよ。実に大切だ。子供の心は染まりやすい。確信のない、ごまかしの返事をしたり「うるさいわねえ。ママ、いま忙しいのよ、サ、いい子だからあっち行って遊んでらっしゃい」
などと逃げをうつ。こういうことが積み重なると、折角の子供の好奇心の芽がどんどん摘みとられてしまって、遂には知識欲のまるで乏しい子供ができてしまう。

(中略)

子供の好奇心を、正しくいい方向に伸ばそうではありませんか。それは無限の可能性を秘めているみずみずしい知識の若木なのですから。
そうして、そのためには――子供に問いつめられたパパとママよ、まずあなた自身が科学的な物の考え方を身につけるほかないと私は思う。知識に対する、憧れと畏れを身につけるほかないと私は思うのであります。

(『問いつめられたパパとママの本』前書きより)

40の質問への解説が掲載されていますので、前から順に読み進めてもいいですし、目次を見て興味のある質問から読んでみるのもいいと思います。面白く読み進めながらいつのまにか知識も増えている、そんな本です。

また、伊丹さん自身が描いた、ユーモラスなイラストが挿絵として添えられていますので合わせて楽しんでみてください。
ちなみに、イラストのいくつかは記念館のオリジナルグッズにも使われています。

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例:ゴム印
使用されているイラストはすべて
『問いつめられたパパとママの本』から。


もう1冊は、『ポテト・ブック』(マーナ・デイヴィス著/河出書房新社)です。

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元はアメリカのベストセラーで伊丹さんが翻訳を手掛け、日本では1976年にブックマン社より出版されました。その後絶版となっていたものの2014年11月に待望の復刊。その後在庫がなくなりしばらく販売をお休みしていたのですが、6月に再刊となりました。

この『ポテト・ブック』もタイトルどおりの内容で、ポテトに関するあらゆることをぎゅぎゅっと詰め込んだ本です。

ポテトを使った料理やお菓子のレシピ、ポテトの歴史、貯蔵法やポテトを使った工芸、ゲーム、美容法エトセトラ...ポテトに関するさまざまなことを、伊丹さんの洒脱な訳文で楽しみながら読み進めることができますよ。
多くのイラストレーターの方々によるユーモラスなイラストも必見です。絵本のような装丁の本ですがデザイン本のようでもあり、プレゼントとして購入される方もいらっしゃいます。

ご興味のある方は、秋の夜長にぜひどうぞ。

スタッフ:山岡

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2026.10.12 トロリと青い

10月に入り2週間ほどとなりましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

最近は日が短くなり、朝晩もかなり冷え込むようになってまいりました。ご近所では金木犀の花が咲いており、柔く甘い香りを嗅ぎながら通勤をしている今日このごろです。

 

大変個人的なお話しで恐縮なのですが、近々イタリアへ新婚旅行に行くことになっておりまして、当日まで指折り数えている最中となっております。結婚して1年半ほど経つので、もう"新婚旅行"というには少し遅い気がするなと思いつつ、一生の思い出になるだろうとツアーに申し込みました。人生初のヨーロッパへの旅行です。

 

さて、ヨーロッパといえば、皆さまはもちろん『ヨーロッパ退屈日記』が思い浮かぶことでしょう。

伊丹さんは『北京の55日』の撮影のためにヨーロッパに長期滞在しました。ヨーロッパで過ごした日々がつづられたエッセイ「ヨーロッパ退屈日記」が、1963年に雑誌『洋酒天国』に掲載されます。こちらの記事をきっかけに雑誌『婦人画報』にて連載がはじまり、書籍『ヨーロッパ退屈日記』が刊行される運びとなります。

ご存じのとおり、『ヨーロッパ退屈日記』では、映画、ファッション、車、お酒、食など多岐にわたるエッセイがまとめられております。イタリアが関係するエッセイとしては、やはり「スパゲッティの正しい調理法」や「スパゲッティの正しい食べ方」が有名ではないでしょうか。「スパゲッティの正しい調理法」ではスパゲッティの茹で加減として"アル・デンテ"という言葉が出てまいりますが、日本で一番初めに"アル・デンテ"をという言葉を紹介したのは伊丹さんではないかという説もございます。

 

s-IMG_9127.jpg常設展示室にて展示中のエッセイ「ヨーロッパ退屈日記」が掲載された

雑誌『洋酒天国』

 

そんな『ヨーロッパ退屈日記』の中で、イタリアに関するエッセイで特に好きなものがこちらの「イタリーびいき」です。

 

イタリーは美しい国である。旅行案内書ふうにいうなら、「風光明媚」である。

イタリーを思うことは、たとえば、遠く過ぎ去った夏を思うに似ている。常に陽がさしているのだ。底抜けに明るい陽の光が、いつもいつも満ち満ちているのです。空が、トロリと青い。風が吹いて、樹々の葉がきらきらと光る。葡萄の畑、オリーヴの丘がなだらかに、ゆるやかに起伏する。いかにも「粛然」という面持ちで、くろぐろと直立しているのは、あれは糸杉である。

家々の、クリーム色の古い壁、その浅い屋根の、煉瓦色のつらなり。しんとした村の広場には背の高い、四角な塔が濃い影を投げているだろう。黒ずくめの老婆がひとり、杖にすがって、日の中を渡って行くのだって見ることができるに違いない。

(『ヨーロッパ退屈日記』より「イタリーびいき」)

 

s-IMG_9128_1.jpg『ヨーロッパ退屈日記』

 

映画や旅番組を見ていて思うのは、イタリアには一年を通して温かな陽ざしや青い空であるイメージが私の中に強くあるということです。日本の夏も同じく青い空のイメージがありますが、「空が、トロリと青い。」と伊丹さんがエッセイで書いているとおり、イタリアは何故だかその青が「トロリと」している気がするのです。

最近はすっかり秋模様となり、日本とあまり変わらない緯度に位置するイタリアも朝晩が冷え込んでいるそうですので、空の青さも少し柔らかく霞んでいると思われます。ですが、できることなら、映画やテレビで見たあの特徴的な空の青さを、実際に見ることができればなあと思っております。

 

さて、ニュース欄でも告知を開始しておりますが、12月5日(土)14時より、第3回目の展示室トークを開催いたします。

記念館の展示の楽しみ方を学芸員がお話しする催しとなっており、常設展示室に入ってすぐ、館長挨拶・特報映像コーナーにて行います。ご入館料だけで気軽にご参加いただけるようなスタイルとなっておりますので、お立ち寄りの際はぜひご参加いただけますと幸いです。

 

学芸員:橘

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2026.10.05 二人の背景

かれこれ2年以上前になりますが、こんなことがありました。

ある休日、所用のため家路を急いでいたときのことです。
駅からの道を小走りに四つ辻を通過しようとすると、私の進路と交差する道に高齢の男性が倒れているのが視界に入りました。30~40メートルほど離れていたでしょうか。

倒れている、というよりは「転倒して起き上がろうとしているのに起き上がれない」という様子でした。そばにシルバーカー(座れるお買い物カート)があることから、歩行にご不自由がある方なのだろうと察せられました。

一緒にいる奥様らしき方はお元気そうだから、余計なお世話かも。
でも奥様一人で助け起こすのは無理だよね。
帰りたいけど寝覚めの悪い思いはしたくない、手伝いに行こう。
あれ、奥様は助ける気が全然なさそう。
ずっと腕組みして立ってるだけなの、なんでだろ。

駆け寄る間に不穏な空気をじわじわ感じ取りつつ「大丈夫ですか~」と声をかけると、二人が同時に口を開きました。

「大丈夫ですッッ!!」(奥様)
「大丈夫じゃないッッ!!」(おじいさん)

あのう、妙に険悪な雰囲気だなって気付いてましたけど......
二人ともにキレられる私の立場って......

私とは逆側から駆けつけたミドル女性と力を合わせておじいさんを助け起こし、シルバーカーに座らせる間も、奥様は不機嫌丸出しで腕組みをしたままでした。
「ホラ! あなたはまたそうやって人に迷惑をかける!」
「いつもそうなんだから!」
「やってもらって当たり前だと思ってるんでしょう!」
おじいさんは言い返さないのか言い返せないのか、ムスッと押し黙るばかり。

「色々間違ってる、と思うけど、何にも言えないな」と思いました。
おそらく、この出来事の背景には、50年にもわたる二人だけのあれこれが分厚く積み重なっていたのでしょう。そんな背景も老朽化して脆くなっていたのかフとした拍子にドカンと決壊、「ケガがなくてよかった」も「助けてくれてありがとう」も生まれようがない状況になっていた、そこへたまたま通りかかった私が何かを言ってもね、と。

帰宅を急ぐ気は消え失せて、ノロノロ歩きの残りの道々、「あの二人だからこそ至った今日なんだな」と考えていました。
「とんでもないドラマを垣間見てしまった」「よくできた映画に巻き込まれたかのようだ」という気分でした。

さて、翻って映画ではどうか――

ある夫婦を映画に登場させるとなりますと、いい俳優を男女ひとりずつキャスティングしたからといって成立するものではありません。
「ウン十年のあれこれ」がありそうに見える、いかにも夫婦に見える二人を組み合わせる必要があります。(もちろん、シナリオや演出、俳優の演技によるところも大ですが。)

有名な映画で言いますと、小津安二郎監督の『東京物語』の笠智衆さんと東山千栄子さんが一番の好例でしょうか。「実年齢では笠さんのほうが14歳も年下だったの!?」とビックリするところまでが一連の流れ、ということでも有名ですね。

伊丹映画にも夫婦の関係性や歴史を感じさせる二人組がたくさん登場して、映画の中の世界を豊かにしています。何組かご紹介してみましょう。


トップバッターは監督デビュー作『お葬式』(1984)冒頭の奥村公延さん&菅井きんさん。

20261005_1.jpg「120まで生きにゃいかんでよ、若い妾でも持ってなあ」
「ああ、ああ、どうぞ好きなようにやってちょうだい」

『マルサの女』(1987)、税務調査で申告漏れを指摘される柳谷寛さん&杉山とく子さん。小さな食料品店を営んでいます。

20261005_2.jpg演技とたたずまい、お店の様子から
必死に暮らしてきたことが伝わってきます。

同じく『マルサの女』。出演シーンは極短ですが、ベンガルさん&畠山明子さんもナイスカップル。

20261005_3.jpg投げ与えられた夜逃げ資金の札束をダメ夫より早く
拾い上げて離さない妻。泣きじゃくってるのに強い(笑)。

『静かな生活』(1995)の岡村喬生さん&宮本館長は、絵本の登場人物のようでいてメルヘンすぎない夫婦です。

20261005_4.jpg声楽家の岡村さんが演じるのは、主人公の兄・イーヨーの作曲の先生。
伊丹監督は『お葬式』の時から岡村さんを出演候補に挙げていたんだそうですよ。

贅沢なキャスティングは伊丹映画のお楽しみのひとつですが、さらに踏み込んで「組み合わせ」にも注目していただくと、味わいがより深まると思います。

あの道端のご夫婦、仲良くしているといいなぁ......という祈りをこめて、今回の記念館便りをお納めいたします。

学芸員 : 中野

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2026.09.28 料理人は片づけながら仕事をする

もう10年近く食洗器がある生活をして参りましたが、ここ1ヶ月ほど、家の食洗器の調子が悪く、食器や調理道具を手洗いしています。「食洗器が無い生活なんて考えられない!」と思っていらっしゃる方も多いかと思いますが、これが意外にも、無いならないでどうということもなく、何ならメリットすらあることもわかって参りました。

食洗器の場合は洗い物を一定数ためる必要がありますが、手洗いになってからというもの、料理中にも発生した洗い物を片っ端からどんどん洗っていき、水切り籠にも容量があるため、洗った食器は即拭いて、即しまうという「流れ」ができ、想定外に以前よりスムーズに台所仕事ができるようになっている気がしております。

さて、伊丹さんはカレーを作れば、カレーと同時に、『ピカピカに磨き上った台所』も完成していたそうです。このエピソードは伊丹さんの著書『女たちよ!』の「料理人は片づけながら仕事をする」というエッセイに書かれているものです。伊丹さんは料理をするときは、料理をしながら台所を「片っ端から常に片づけ」ていたそうです。何なら、料理をはじめたきっかけは周りに「本当の料理人は常に片づけながら仕事をする、ということを見せてやろう」と考えたからなのだそうです。

この度の食洗器の故障で、この伊丹さんのエッセイにより共感するようになりました。

みなさんも、このエッセイを読み終える頃には、台所を「片づけるために」料理をしたくなることと思いますので是非読んでみてください。


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『女たちよ!』新潮社 737円(税込)


「私が料理を始めた動機というのは、ごく愚劣なものなのです。まあお聞き下さい。
 二年ばかり前、私ども夫婦は半年ばかりロンドンで暮した。ハムステッドにフラットを借りて自炊して暮した。ここの家主というのがフランス料理の大家で、自分の作った料理をひとに食べさせるのがなによりも好きという独り者のうえに、うちの奥さんがそれに輪をかけた料理気違いです。
 それゆえ、私が居間でもってソファーにふんぞりかえって子母澤寛氏の「味覚極楽」なんぞを繙いていると(中略)このドメスティックな二人組は台所で盛んにラルースの「フランス料理大全」なんかをひっくりかえしたり、なにやら討議したり、一人が用ありげに台所から出てきたり、また別の一人がしばらく買い物に出かけたり、そうこうしているうちに、なにやら刻む音、なにやら煮立つ音とともに、予測のつかぬ香ばしい匂いなども漂いはじめ、台所の中の動きがただならぬ具合いにあわただしくなったと思うと、ファンファーレの音高く(もちろん、これは料理人の心の中で鳴り渡っているのだが)本日のスペシャル・メニュー! がしずしずと現われる、という仕掛けの毎日を私は送っていたのです。
(中略)
 このような結構な毎日ではあったが、私には気に食わぬことが一つあった。すなわち、彼らが料理した後の台所は散らかり放題に散らかって、足の踏み場もないのである。
 あらゆる鍋、皿、ボウル、スプーン、包丁、布巾、調味料、野菜の切れ端、使い残しの肉、卵の殻、そういうものどもが、死屍累々という塩梅で台所のあらゆる空間をおおいつくすのであって、どうもこれは気に食わない。仕方がないから、そうだ!身をもって範を垂れよう。本当の料理人は常に片づけながら仕事をする、ということを見せてやろう。
 こうして私は生まれて初めて包丁を持ったのであります。忘れもしない、私はまずカレー・ライスを作ったね。料理の本を読むと、いやあ、便利なものですな、これは。「まず玉葱を紙のように薄く切り、これを大量のバターを使ってとろ火で炒める。狐色に色づいた時玉葱を引きあげ、紙の上に並べて油を切る。二、三分もすると玉葱はパリパリになりますから、これをスプーンの底ですりつぶして粉にする。この玉葱の粉がカレー粉の色と香りの基調になるのでございます」なんぞということが書いてある。なるほどやってみると、その通りになっていく。鶏のぶつ切りを炒め、じゃがいも、人参を炒め、チリー・パウダー、塩を少少、カレー粉を次次に加え、同時に鶏のスープを仕込み、炒めたものにスープを加え、玉葱の粉を一緒に煮込んでいく。いやはや、面白いのなんの。トマトを布巾で絞る、これが酸味。マンゴ・チャトニの瓶詰のドロドロの部分で甘味をつけ、最後にライムを一絞りしぼって味を引きしめる、なんて、まあただで教わるのが勿体ないようなことがすっかり書いてあって、その通りやるとその通りのものができる。これは驚きましたねえ。
 傍ら私はどんどん物を片づけましたよ。それが目的なんだからね。要するに、片っ端から常に片づければそれでいいのさ。汚れ物というものは加速度的に増えるから、一旦溜り始めるともういけない。追いつけなくなってしまう。
 ま、そういうわけで、私の料理の第一日目には今まで食べた最良のチキン・カレーとピカピカに磨き上った台所が同時にできあがったわけで、目出度き事限りなし。そうして物事は初めが大事だ。初めに身についた習性というものは、なかなか抜けるもんではないのでして、今でも女房は台所が汚れてくると私の料理を所望するのです。
(『女たちよ!』より「料理人は片づけながら仕事をする」)



スタッフ川又

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